伊東重信の鎧(いとうしげのぶのよろい)


▲伊東重信が着用していた鎧
この鎧は伊東重信が着用していたもので鉄黒漆四枚胴(てつくろうるししまいどう)という造りです。
この鎧には兜(かぶと)がありませんが、これは戦いの中でなくしたものと思われます。
伊東重信という人物は藤原鎌足(ふじわらのかまたり)の子孫であり、伊達十一代持宗(もちむね)の時から代々仕えていた家系で、重信は伊達晴宗(はるむね)・輝宗(てるむね)・政宗(まさむね)の三代に仕えました。

重信は天正(てんしょう)13年(1585年)政宗の父輝宗の敵畠山氏(かたきはたけやまし)を討つ戦い「人取橋(ひととりばし)の戦い」(現福島県本宮市)において、高倉城(たかくらじょう)(現福島県郡山市)に配置されました。
敵はそこを要害地と考え、多くの兵を向かわせます。
これを見て城内にいた伊達方の中には籠城(ろうじょう)説もありましたが、重信は玉砕戦法を主張し、少ない兵で善戦しました。

天正16年(1588年)には佐竹(さたけ)・蘆名(あしな)等の連合軍との戦い「夜討川(ようちがわ)の戦い」(現福島県郡山市)がありました。
この戦いで重信が政宗の身代わりとなり政宗を救いますが、討死してしまいます。
伊達軍は劣勢でしたが、蘆名の領地内で争いが起こり戦いを続けにくくなったため、調停を行い和睦(わぼく)が成立、伊達軍は救われました。

この「夜討川の戦い」の舞台となった窪田河畔には重信の功績を称える石碑が建てられました。
現在は川の改修工事が行われたため、福島県郡山市冨久山町の日吉神社に移されています。