松島の名前の起源

 松島という名称の起こりには、昔から数多くの伝説があります。主なものとしては、次のような説があげられます。

聖徳太子が仏教を信奉するあまり、達磨大師がわが国にこられることを信じて松島に来られ、現在の扇谷に庵を構えて、その到来を待たれました。待つと松とが国音が通ずるので、待島が松島と転化した、という説。

見仏上人が雄島で修業されていたころ、時の帝だった鳥羽天皇が大蔵卿康光を勅使として松の苗木一千本を贈られ、これを慰められたので、初めは千本の松の島という意味で千松島と呼びましたが後に千を略して松島と呼ぶようになった、という説。

源頼朝の夫人政子が、雄島で修行中の見仏上人を慰めるため姫小松千株を贈られました。それで初めは千松島と言いましたが、後に千を略して松島と呼ぶようになった、とする説。

その他にも、これに似た伝承があり、このような伝説から見て、松島という名称は最初は雄島に名づけられたものでしたが、次第に範囲が広くなって、現在の松島勝景の総称となったのである、と説く人もいます。

 それらの真偽は別として、300に近い島々のどの島にも緑の松が生えているので松島と呼んだのである、という説が一番正しいようです。

 

 

天才西行もタジタジに!? 桜並木も美しい

  西行法師は松島寺(円福寺)を訪ねるためにこの地へ来ましたが、松の大木の下で牧童(一説には老翁)と禅問答をして敗れ、松島寺詣でをあきらめたと言われています。この大木はパノラマラインの頂上付近にあり、すぐ近くに白衣観音堂があって、ここからの眺めは桜並木と松島湾の調和が美しく、まるで一幅の名画のようです。

 

 

天麟院(てんりんいん) 政宗の長女五郎八姫が余生を送った寺

  政宗の娘五郎八(いろは)姫は徳川家康の子、越後少将忠輝に嫁ぎましたが、間もなく離絶。この寺で尼として薄幸の余生を送りました。院内には薄幸の子等を救うべく子育て水子地蔵尊が立っています。